ろくのゲームに関するブログ

不定期で気になったりしたことをつらつらと書いていきます!

【途中からネタバレ有】プロメアを観て

このブログは、映画『プロメア』を観た人に向けたものであり、まだ観てない人は可及的速やかに映画館へ行き、プロメアを観ることをオススメする。また、キャラクターやストーリーなど詳細については、公式HP《https://promare-movie.com》を参照いただきたい。




さて、ここからプロメアを観た人向けに色々感じたことをただつらつらと書き連ねていくだけなので、本当にまだ観てない人は1ミリも下へスクロールせずに、観に行ってくださいね。

(キルラキルの内容を引用することが多々あります。ご了承ください。)








1.感想

最高!!!!!

製作陣を見て1等が確実に当たる宝くじを引くような気持ちで観に行ったが、その期待をも上回る作品だった。

そもそも、完全オリジナル劇場アニメーションというもの自体が一周回って目新しさを感じさせる。今や、ビデオパッケージの販売・レンタルよりも宣伝媒体としてのアニメの方が主流であり、つまりそれはアニメ業界に深く根付く「モノ消費」が主流ということである。もちろん、ラブライブなどが代表として挙げられるライブエンタテインメント(声優陣がキャラクターに成りきってパフォーマンスをする)のような「コト消費」に対する関心が年々高まっており、消費者たちが新たな体験を追い求めている現状も理解している。しかし、ビジネスモデルを考えるとまだまだ「コト消費」をメインに据えた例は少ないように思える。

そのため、TVアニメ→映画化のような流れを踏まなかったプロメアに心底驚いた。

また、このような劇場アニメーションの難しいところは、事前知識が少なくなるところである。TVアニメを映画化した際は、当然そのTVアニメを見た人たちが映画を観に行くため、キャラクターの背景や関係性・作品の世界観などが既に頭の中に存在する。しかし、プロメアに関しては、それこそ公式が提供するチラ見せ情報を目にするのみである。ということは、映画を見つつ頭で状況を整理する必要がある。観に行く人にかかる負担が、TVアニメ出身作に比べて高くなるというハードルを一つ抱えているも同然である。

しかし、プロメアはそこを逆手に取ったような展開を見せた。ほとんどのシーンでBGMが流れており、目まぐるしく移り変わる展開に拍車をかけたのである。これによって疾走感を作品全体に付与し、ド派手なアクションも相まって完全にデメリットを良さへと昇華させた。また、ド派手なアクションだけでなく【静】の場面においても物語の背景や新展開の判明に深くフォーカスさせるような"BGM全体の抑揚"は、感動すら覚えるものであった。

2.TRIGGER作品の根底に潜む問いかけ

ここで一つ自己紹介をすると、私は大学のある講義のあるレポートのついでにキルラキルを三周し、キルラキルへの愛をぶちまけてA+を取った男である。

(天元突破グレンラガンは未視聴です。申し訳ない。)

その知識のおかげか、分かったことがあったので共有したい。



TRIGGER作品は教訓を一般化しやすい


プロメアもキルラキルもそうであるが、作品から読み取れる教訓を一般化しやすい。少しでもストーリーに没入出来れば、「これどう思うよ?」ってわかりやすく問いかけてくれるのである(しかし、それはとても重くのしかかる)。キルラキルであれば生命戦維という存在、プロメアであればバーニッシュ(もといプロメア)という存在、それぞれとの付き合い方をどうすべきか。極制服の星の数によって生活環境が一変することを説明するシーンは現代社会を痛烈に皮肉り、バーニッシュが作ったピザとわかるや否や食べるのをやめ、作り手を唾棄しながら投げ捨てるシーンは黒人白人を始めとした「人種差別問題」に通ずる何かを考えずにはいられない。

神衣を身にまとった纏流子や鬼龍院皐月・プロメアを身に宿したリオ・フォーティアは、生命戦維・プロメアの意思と闘いつつ、使い手の使い方次第によっていくらでも状況は変化することを示してくれた。当事者たち・それに対峙する者たちという関係はあれど"それ"を活かすも殺すも彼ら・彼女ら次第である、ということだ。


私がこの二作品で得た教訓を一般化すると



「立場や思想・主義、時には種族を越えて協力し・助け合い・物事の解決に向かえることこそが、世界の理想である」


こんな感じである。人によってどのような教訓を得られるかは分からないが、何かしらの学びを得られることは確かである。



つまり、バーニッシュだからなんだというのだ。生命戦維を体に取り込んだ人間だからなんだというのだ。
『たしかに私たちは人でもなければ服でもない。だが同時に私たちは人であり服であり全てである。人は服にはなれない。人は人、服は服だ。それが私たちだ。』
そう、私たちヒトはわけのわからない生き物である。同じ人間なのに肌の色が違うだけで、趣味趣向が違うだけで、価値観が違うだけですぐに争う。だが、肌の色が違っても、趣味趣向が違っても、価値観が違っても、それはいい。問題は、違いを理解し、いかに尊重できるかである。そこに懸かっている。
バーニッシュの特性をきちんと把握しないまま、被った被害だけに目を向け忌み嫌い、バーニッシュについて正しく理解する機会が失われていた点は、観ていてとても悲しく思った。それと同時に、バーニッシュ側も自らの生活を守るために抵抗しないわけにはいかなかった一方で、プロメアの声のままにあちこちを燃やすこともあり、相互理解を深められるかという点に関して、非常に難しい問題だということは否定出来ない。

3.まとめ「究極のハッピーエンド」

さきほど私が得られた教訓は、まさに理想である。現実に目を向けると、当然ながらここまで上手くいくわけがない。人種差別問題は今もどこかで発生し、本当に残念だがなくなることはないだろう。
作中の話でいうと、半年かけて地中のマグマを抑える方法を何とか発見するか、一万人の人間をノアの方舟に乗せて別の星へ避難し、残りの人間全員を犠牲にする(加えてバーニッシュを"燃料"として扱うことになる)か、どちらかを選べと言われたらどちらを選ぶだろうか?というか、選べるだろうか?決断できるだろうか?
我々はクレイ・フォーサイトを糾弾すべきなのだろうか?人類の運命を一手に担い、どうにかして人類が生存出来ないか模索した結果辿り着いた結論を、代替案もなしに否定出来るだろうか?いや、出来ない。それは無責任というものだ。

火山やマグマという話が出てくるので、一例として地球の環境についても少し取り上げてみる。
大量生産・大量消費型の社会になったおかげで経済成長し、我々は豊かな暮らしを獲得することとなった。一方では、廃棄物処理に限界が来ていたり、CO2発生による温暖化進行は加速しているという事実がある。
また、エコロジカル・フットプリント(ある規模の経済活動を持続的に続ける上で必要となる土地及び水域の面積)

環境収容力(現在の人々の生活を最大限支えることの出来る自然環境の能力)
を超えた今、生活水準を落としてまで環境を守ろうと実際に何かしらする人はどれだけいるだろうか?

得られたものの影には、必ず失われたものがある。それを棚に上げ、環境保全云々宣う偽善者はごまんといるが、はたしてそれはリスクとリターンを精査しているのだろうか?プロメアにおいて読み解くことのできた"理想"を叶えられない我々にとって、このような大規模の問題を解決することは非常に難しい。
しかし、個人として心がけられることはある。知らないことを毛嫌いして否定するのではなく、まずは知ろうとする。そうして互いに理解を深め、認める。そこにあると認識する。知ったあと、それを好きになろうと嫌いになろうと個人の勝手だが、押し付けるようなことはしないようにする。
たかがアニメ、されどアニメ。何事にも言えるが、体験を活かすも殺すも自分次第なのである。

最後まで御精読ありがとうございました!

なんやかんや言っても、モノは買います。欲しいもん。欲しくなるよね?